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COLUMN

コラム

2023/08/04

世界的な真珠ブランドのミキモト(MIKIMOTO)とは 【足立区 北千住 買取 銀座パリス北千住学園通り店】

ご覧頂きありがとうございます。
今回は真珠で有名なミキモトについてご紹介したいと思います。

 

ミキモトとは

1899年、御木本幸吉により「御木本真珠店」として真珠専門店が創業されたのがミキモト(MIKIMOTO)の始まりである。
この日本のジュエリーブランドは養殖真珠を中心としており、御木本が世界初の真珠養殖に成功したことから、1924年には宮廷宝飾店にも制定された。

初期から海外展開を積極的に行い、1893年のコロンブス万国博覧会などに出品しています。
その後ロンドン、ニューヨーク、パリなどにも次々と店舗を展開していきます。
1937年には、パリの名高いヴァンドーム広場にも店舗を構えます。

養殖真珠が偽物との批判もあったが、科学的に否定され、養殖真珠の世界的な普及を後押ししました。
第二次世界大戦中の装飾品生産停止期間には、真珠を活用したスキンケア商品の提供を開始します。
この創意工夫が、現代の「ミキモト コスメティックス」ラインへと繋がりました。

今日、ミキモトは真珠だけでなく、ダイアモンドや色石などの貴石を使った多岐にわたるジュエリーを提供しており、国際的な展開も進んでいます。
「ミキモト・パール」の名で、国内外に直営店を展開し、ハイジュエリーやブライダルジュエリーなども幅広く取り扱い、世界的なジュエリーブランドと言えるでしょう。

 

ミキモトの歴史

1893年に御木本幸吉が世界に先駆けて半円真珠を養殖。
これは画期的であったため、同年、シカゴで開かれたコロンブス万国博覧会などに、養殖真珠製の工芸品を展示。

1899年に銀座で日本初となる真珠専門店「御木本真珠店」を創業し、1905年には真円真珠の養殖にも成功。

1906年には現在の中央通りへの移転とともに、1907年には装身具加工工場「御木本金細工工場」を立ち上げ、1908年には商品カタログ「真珠」を発行。

1913年、ロンドン支店を皮切りに海外展開を始め、1924年には宮中御用装身具の謹製を任される宮廷宝飾店となり、同年のパリ裁判で養殖真珠が天然真珠と等価であることが立証された。

1927年にはニューヨーク、翌1928年にパリへの支店開設。

1937年のパリ万博には「矢車」を出品。

1966年には化粧品販売を開始し、1971年にスキンケアシリーズ「ムーンパール」を発売。

1972年に社名を株式会社ミキモトに変更し、ダイアモンドや色石なども扱う宝飾店へと進化。

1973年には「パリ・ヴォーグ」で特集され、1974年には銀座4丁目の本店ビルが完成。

1986年にはパリのヴァンドーム広場、1995年にロンドンのニューボンドストリート、2004年に上海に直営店を開設。

2005年には銀座の旗艦店にエステティックサロンを併設し、2007年に福岡県相島での新しい養殖事業を始めるなど、国内外で展開しています。

 

御木本幸吉とはどんな人物?

御木本幸吉(1858年3月10日生まれ)は、三重県鳥羽市のうどん製造販売業を営む家庭に、父・音吉と母・もとの長男として誕生しました。
鳥羽港は、江戸と大阪の間の主要な海上輸送路で、祖父は運送・販売業で富を築きました。
しかし父の音吉は時代の変化に追いつけず、失敗して多くの財産を失ってしまいます。
その一方で、機械器具の発明や改良の才能は三重県からの表彰を受け、幸吉にその才能が引き継がれたと言われています。

13歳から家業を手伝い、青物の行商を始めた幸吉は、20歳で家督を継ぎました。
その後、東京や横浜を訪れ、海産物輸出の将来に関心を持ちました。
この興味から、1880年にアワビ、ナマコ、テングサなどを取り扱う海産物商を始め、地元の町会議員や委員などの地位を得て、実業家としての基盤を築きました。

幸吉が真珠販売に目を向けるようになったのは、干アワビの輸出を手がけている時期で、1887年頃から鳥羽周辺で真珠貝養殖が始まっていました。
1888年に、改良された海参と真珠を出品して二等賞を獲得した後、真珠貝養殖に本格的に取り組む決断をしました。
英虞湾の視察を経て、同年9月から真珠貝養殖を開始します。
しかし、この時期にはすでに人工真珠養殖が進んでいたため、幸吉も鳥羽湾相島(現在の御木本真珠島)で人工真珠養殖に取り組んだのです。

このように、御木本幸吉は革新的な商人であり、発明家でもありました。
うどん屋から海産物商への転身、そして真珠貝養殖への取り組みは、彼の類まれなる洞察力と、新しい分野への果敢な挑戦を象徴しています。
彼の努力と情熱は、現在のミキモトブランドの礎となっていると言えるでしょう。

 

「真珠王」と呼ばれるまで

1893年の明治26年、御木本幸吉は東京帝国大学の箕作佳吉と佐々木忠次郎と共に半円真珠の養殖に取り組み、7月11日に成功を収めました。
その後、神明浦田徳島周辺の漁場6万坪を借り上げ、真珠養殖の事業化に乗り出しました。

明治27年の1894年9月には、真珠素質被着法の特許申請が行われ、1896年1月27日には許可を得て、半円真珠養殖の独占権を確保しました。
1899年の明治32年3月、東京に御木本真珠店を開業します。
真珠加工場も併設し、自ら真珠の販売を始めました。

1926年からは、フィラデルフィア、シカゴ、ニューヨークといった国際博覧会に次々と出展します。
ミキモト=パールの名を世界に広げました。

独占に対する反対派との争いもありましたが、国家的な実業家であった御木本は、支援者の協力を得てこれを乗り越えました。
真円真珠の先進技術者である娘婿の西川藤吉、見瀬辰平、桑原乙吉らを研究所に招き、1907年に真円真珠養殖法を開発し、翌1908年に特許を取得しました。
その後、真珠の直販店を欧米の主要都市に展開し、ミキモト=パールの名声を確立します。
彼自身は「真珠王」と称されるようになりました。

最終的に、御木本幸吉は1954年9月21日、養殖場の近くの多徳島の自宅で96歳で亡くなりました。
彼の業績は、今日でも語り継がれており、真珠といえばミキモトという代名詞にまでなっています。

 

まとめ

いかがだったでしょうか?
銀座パリス北千住学園通り店では、真珠の買取を強化中です。
その中でも、ミキモトやタサキなどの真珠で有名なブランドは高値でお買取可能です。

これは、ブランド品だから高く買取が出来るという点と、ミキモトやタサキであれば真珠の品質が確かな物であるという保証にもなっているからなのです。
ミキモトの真珠であれば上質なパールが使われているという点と、リセールバリューが高い、つまり再販しても高く売れるため、ミキモトは高く買取出来るのです。

勿論ミキモトのパール以外のジュエリーも高価買取しております。
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