こんにちは!
今回は、【ロレックス】の王冠透かしについてお話させて頂きます。
ロレックス腕時計が本物か偽物かを判断する上で重要なのが
風防(ガラス部分)に彫られた「王冠透かしマーク」です。
王冠透かしマークは、肉眼ではなかなか確認しづらいと言われています。
王冠透かしマークの見つけ方やデザインについて、また王冠透かしマークの有無が
ロレックス腕時計の買取査定に影響するのかなど詳しく説明させて頂きます。
6時のインデックスの位置に刻印されています。
サファイアガラスに刻印されているので見にくい場合があります。
なかなか肉眼では見つけられないのでルーペや虫眼鏡を使うのがオススメです。
ルーペで6時の位置を見ながら、腕時計を斜めにしたり角度をつけたりすると王冠透かしマークが見えてきます。
手元が暗くてよく見えないときは、卓上ライトなどを使って手元を明るくすると見やすいかもしれません。
ロレックス腕時計のなかには、王冠透かしマークが刻印されていない
「ミルガウス グリーンガラス(116400GV)」というモデルが存在します。
このモデルには「グリーンサファイヤクリスタルガラス」というロレックスが開発した硬質なガラスが使われており
刻印によってガラスが割れてしまう為、王冠透かしマークが入っていないと言われています。
また青い文字盤や白い文字盤のモデルなどでは、王冠透かしマークが刻印されていても見えにくくなっています。
ロレックス腕時計の王冠透かしマークは、1999年頃から同じデザインが使用されてきましたが
2016年以降に発売された新型デイトナで新たなデザインに変更になりました。
旧デザインでは王冠底部分の線が1重でしたが、新デザインでは線が2重になっており、デザインがより複雑化しています。
1999年以前に販売されていた旧型のロレックス腕時計には、王冠透かしマークは刻印されていません。
透かし入ってないロレックスを修理に出した際に、王冠透かしマーク入りのガラスに交換されて戻ってくる場合があります。
また、王冠マークの下に横向きの「S」が刻印されたバージョンも確認されており
修理内容に風防の交換が含まれる場合は、古い物でも王冠透かしマークのあるガラスが装着されることが多いようです。
王冠透かしマークの有無は、ロレックスの買取金額に影響しないのがほとんどです。
特に旧型のロレックスには王冠透かしマークが刻印されていないので、王冠透かしマークがなくても買取金額は変わりません。
ロレックス腕時計の王冠透かしマークは1999年に発売された「ヨットマスター ロレジウム」Ref:16622で初めて採用され
2003年以降はロレックス腕時計の全モデル(ミルガウス グリーンガラスを除く)に採用されています。
サファイアクリスタルは大変硬質な素材で、刻印には高度な技術が要求されます。
そこへ透かし模様を刻印できるのは、ロレックスの技術が最高峰である証です。
最近では残念な事に、模造品や偽造品にも王冠マークの刻印が確認されています。
ただ、透かし模様を刻印するのは難しいため本物と比べてつくりが荒かったり刻印が深かったりするものがほとんどです。
また、模造品や偽造品にある王冠透かしマークは、目視で確認できるものが多いと言われています。
ロレックスは最高峰の時計ブランドです。
細かいところにまで、最高峰の技術を使って時計を作っています。
銀座パリス北千住学園通り店では
ただ今、ロレックス製品を強化買取しています!
査定は無料ですのでお気軽にご来店下さい☆
こんにちは!
今回は【フランクミュラー】のご紹介です。
斬新なアイデアとデザイン力、高い技術力で数々の名品を生み出し
世界中から愛され日本でも高い人気を誇る、高級時計ブランド「フランク・ミュラー」。
その歴史は、創業者の一人であり、ブランド名ともなる独立時計師のフランク・ミュラーの誕生から始まります。
彼は、1958年に時計の聖地として知られるスイスのヌーシャテル州ラ・ショー・ド・フォンにて
スイス人の父とイタリア人の母の間に生まれました。
幼い頃より、古い機械式時計に興味を持ち、1975年にはジュネーブ時計学校に入学し彼の才能は開花します。
3年で履修する単位を1年で修得、また数々の賞を受賞し、スイスの時計業界から熱い視線がおくられました。
そして、後にハリーウィンストンなどを手掛ける有名な独立時計師のアントワーヌ・プレジウソと共に
首席で時計学校を卒業すると、時計師としてのキャリアがスタートします。
卒業後は、独立時計師としてオーダーメイドによるオリジナル時計の製作や
時計コレクターや博物館から依頼された機械式時計の修理などを手がけ活動していきます。
1986年になると、数人の時計師と共に、スイスのジュネーブ市街地からほど近いジャントゥという村に
最初の本拠地となる創作工房を構え、時計史に名を刻む複雑機構(トゥールビヨン)の数々を開発します。
世界初の「フリー・オシレーション(自由振動)トゥールビヨン」や
「ジャンピングアワー機能が付いたレギュレーター・タイプの文字盤を持つトゥールビヨン」
「リバース・トゥールビヨン」「ミニッツリピーター」「パーペチュアルカレンダー」など
次々と複雑機構を発表し、その実力と才能は世界的に知れ渡ります。
天才時計師として、世界の時計業界にその名が轟いたフランク・ミュラーでしたが
自らの名前を冠した時計ブランドはまだありませんでした。
時計ブランド設立のキッカケとなったのが、アルメニアに生まれで
ジュネーブにて宝石商を営んでいたヴァルタン・シルマケスとの出会いでした。
宝飾の知識や商才を持つヴァルタンと、天才時計師フランクの二人は共同経営で
1991年に「テクノウォッチ」を設立し、1992年に時計ブランド「フランク・ミュラー」を
スイスのジュネーブにて立ち上げます。
後にブランドの代名詞となるモデル「トノウ カーベックス」が発表されます。
高い技術力が必要とされる美しいフォルムのケースは、トノウ型の三次元曲線を用いてボリューム感を出し
どの角度から見てもラインが湾曲し、ビザン数字を配した文字盤のデザインは
そのユニークさから大きな話題になりました。
1998年には「フランク・ミュラー・ウォッチランド」に社名変更し
世界最大級の時計展示会であるS.I.H.H.を離れて、独自の時計展示会W.P.H.H.を主催し
現在はW.P.H.H.グループとして、フランク・ミュラーを筆頭に、時計ブランド「ピエール・クンツ」
宝飾品メーカー「バックス&ストラウス」など数社による企業グループを形成しています。
二人が持ち合わせた、ムーブメントの開発技術とジュエリーセッティングなどの宝飾技術の融合で
設立から僅か数年で世界を代表する時計ブランドとして大成功を収めますが
あまりにも時計が売れすぎたことで、職人として極めたいフランクと
経営を拡大していきたいヴァルタンの間に不協和音が生まれていきます。
2006年に、理想を追い求めたいフランクが、時計づくりに専念できるよう経営から身を引くことで事態は収まり
現在はヴァルタンがCEOとして会社の舵取りを担っています。
1992年のブランド誕生以来、高度な技術力と斬新なデザインで、魅力的なコレクションを次々と発表し
世界中の時計コレクターやセレブリティ達を魅了してきたフランク・ミュラー。
前述の「トノウ カーベックス」以外にも、時計史を塗り替えるような新しい発想の時計や
斬新で遊び心のある時計など名作は多数あります。
また、フランク・ミュラーのコレクションは、ケース形状別コレクション
デザイン別コレクション・機能別コレクションの大きく3つのカテゴリーに分類されるのが特徴です。
ケース形状別コレクションの代表モデルとしては
「トノウ カーベックス」を始め、その後継モデルで「前衛」を意味する名が付けられた「ヴァンガード」
ビザン数字の文字盤やスペード型の針などクラシカルなデザインが特徴の「ロングアイランド」
フランク・ミュラーでは異色の円形のラウンドケースモデル「ラウンド」
トノウ カーベックスの進化形としてスペイン語で「征服者」を意味するモデル「コンキスタドール」
四角形(正方形)のケースとアールデコ様式のクラシカルなデザインで女性に人気が高い「マスタースクエア」
針やフォルムなどにハートをモチーフとしたデザインを採用した女性向けモデル「ハート トゥ ハート」などがあります。
デザイン別コレクションの代表モデルとしては、ブランド初のステンレスケースを採用し
映画カサブランカをモチーフとしたデザイン、UVカットの処理を施さないことで
文字盤の表面が日焼けによる経年劣化を楽しめるように作られた「カサブランカ」
ブランドの代表的デザインでもある文字盤のビザン数字をレインボーカラーに配色した「カラードリーム」などがあり
代表モデルとしては、時計の常識を覆し文字盤の数字がバラバラに配置された「クレイジーアワーズ」などが有名です。
また、近年では「時」というテーマをモチーフに新たなサービスも展開し始めています。
贅沢な時間を楽しむためのスイーツを提供する「フランクミュラー パティスリー」
食器などフランク・ミュラーの世界観を住空間に提案した「フランクミュラー フューチャー フォーム」
時に祝福されたウエディングをプロデュースする「フランクミュラー ウェディング」
時をモチーフにデザインされた指輪・ネックレスなどを販売する「ジュエリーコレクション」など
「時」というテーマに飽くなき探究心を追求し続けています。
「時」をデザインするフランク・ミュラーは、現代において人と時の関係性をあらためて気付かせてくれています。
設立からわずか20年足らずで世界の老舗時計ブランドと肩を並べるブランドへと成長した
フランク・ミュラーは、クラシカルでエレガントが魅力のハイセンスなデザインと高度な時計製造技術により
デザイン的にも機能的にも芸術を感じさせる製品をいまも作り続けています。
銀座パリス北千住学園通り店では
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こんにちは!
今回は【バレンシアガ】の歴史についてお話させて頂きます。
バレンシアガは1900年代初頭に創立された、歴史のあるブランドです。
創立当初はオートクチュールハウスとして、オーダーメイドの1点物を取り扱っていました。
創立者のクリストバル・バレンシアガは、女性の服装に革命を起こしたと言われる
クリスチャン・ディオールと肩を並べるほどの気鋭のデザイナーであり、モード界で初めて
ゆったりしたシルエットの服をつくったと言われています。
クリストバル・バレンシアガの死後、1972年から1986年までの間は
香水ブランドとして存続し、1987年からはプレタポルテ(既製服)のブランドとして再スタートしました。
そこから徐々に、靴やバッグなどの小物、メンズウェアなど、商品を拡大していきました。
日本でも、バレンシアガは非常にメジャーなブランドです。
グッチグループの傘下にあるバレンシアガ・ジャパンは、全国の百貨店に店舗があります。
若者からの人気が高く、特にスニーカーやキャップが注目され人気商品となっています。
バレンシアガのスニーカーは、発売と同時に売り切れるほどの人気で
中でも厚底のソールが特徴的なTRIPLE Sシリーズが人気が高いです。
無地に大きくバレンシアガのロゴが入ったパーカーも人気です。
背中やフードに大きくロゴがプリントされているタイプが多く、正面はシンプルですが
後ろから見るとかなり存在感があります。
バレンシアガは、ロゴの入った小物も数多く展開しています。
アクセサリーやレザー小物、ベルトなどがあり、中でもキャップが最も人気です。
バレンシアガのクロスボディバッグは、レディースもメンズも人気です。
キャンバス素材をベースに、正面にワンポイントでロゴが入った定番シリーズのバッグです。
その中でも人気のアイテムはネイビーカバスというキャンバス素材のトートバッグです。
バレンシアガはロゴの入った商品がとても人気でここ数年で需要が一気に増えました。
若者だけでなく、シンプルなデザインが豊富なバレンシアガは
幅広い年代に高く支持される人気アイテムが多く発表されています。
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こんにちは!
今回は【セリーヌ】の歴史のご紹介です。
セリーヌは、1945年にセリーヌ・ヴィピアナと夫のリチャードが自分の子どもたちのためにパリで
子供靴のお店を開いたことからブランドが始まりました。
店名は、デザインを担当した妻「CELINE」と名付けられ
職人の技術を活かした子供靴はパリの上流階級の間で話題となり、徐々にセリーヌは知名度をあげていきます。
セリーヌのアイデンティティは、最高級の革を使い、一流の革職人が作りあげるクラフツマンシップにありました。
そのこだわりに魅力された大人の女性も、セリーヌに注目するようになります。
その結果、1959年に婦人靴も作るようになっていきました。
フレンチカジュアルの代名詞であるB.C.B.Gとは、「ベーセーベージェ=Bon Chic Bon Genre」の略で
「フランス上流階級の品の良い暮らし」の意味で、パリで流行した上流階級のフレンチカジュアルのスタイルです。
オールドセリーヌでもいまだに人気のあるモカシン「インカ」は
当時のパリジェンヌに高く評価されセリーヌを代表するシューズになります。
66年にはバッグを手がけ、セリーヌのモチーフ、馬車の金具でデザインされたサルキーバッグが大ヒットしました。
今でもオールドセリーヌとして価値のある名品で、今見ても決して古さを感じさせない時代を超えたアイテムです。
66年にはバッグを手がけ、セリーヌのモチーフ、馬車の金具でデザインされたサルキーバッグが大ヒットしました。
今でもオールドセリーヌとして価値のある名品で、今見ても決して古さを感じさせない時代を超えたアイテムです。
セリーヌがLVMHの傘下に入りブランド力が一気に向上します。
ファッションの流行の波は早く、B.C.B.Gは徐々に衰退していきます。
その流行の波は、B.C.B.Gの代名詞であったセリーヌにおおきく影響があり
高齢者のブランドというイメージが定着し、徐々にブランド力が低迷していきます。
そして時は流れ1996年、LVMHグループの傘下に入ったセリーヌは資金力をつけ
1997年からチーフデザイナーにマイケル・コースを起用。
これが大成功をむかえ、ブランド力は一気に向上します。
セリーヌの歴代デザイナーの比較と違いについて、名作をとおしてわかりやすく解説していきます。
まずは、マイケルコース期です。
マイケル・コースは実用性を重視したスポーティーなスタイルを打ち出していきます。
2002年にはセリーヌの顔とも言える「ブギーバッグ」が登場します。
そして2003年にはセリーヌを代表するシリーズ「パリ・マカダム」を発表し
この2大アイコンバッグが爆発的に売れたこともあり、セリーヌは徐々にその地位を獲得していきます。
品質、デザイン、そして実用性に優れたアイテムの数々は、幅広い女性の支持を獲得しました。
マイケル・コースはその後、自身のブランドを立ち上げます。
マイケル・コースの退任後、2005年からロベルト・メニケッティが
その後はイヴァナ・オマジックが2008年までデザイナーを務めましたが
どちらも話題性にかけ徐々にセリーヌの人気は、薄れ始めていました。
しかし、ある一人の女性によりセリーヌは息を吹き返したように返り咲きます。
セリーヌの救世主フィービーファイロです。 このひとりの女性がセリーヌを
今の地位まで確立させた立役者といっても過言ではありません。
2008年、セリーヌは新しい変革を求められ
クロエで実績を積んだフィービー・ファイロをクリエイティブ・ディレクター兼取締役のポストを用意しました。
フィービーがデザインするシックでミニマムなスタイルは、多くのセレブから高く評価されていきます。
フィービーは、「ただ、すべてきれいさっぱりにしたい」と表現しており無駄なものを削ぎ落とし
素材の良さや、本来の皮職人のクラフツマンシップの精神に回帰するようなデザインを心掛けました。
そして全世界で大ヒットしたバッグ「ラゲージバッグ」を生みだします。
ドレスとカジュアルの中間にあるようなフォルムのバッグは
TPO問わずどのようなシーンでも使えることが高く評価され、全世界で大ヒットするのです。
他にもフィービーは、アイコンとなるセリーヌのバッグを手がけており
「カバ」「クラシック」「トラペーズ」など、これらは未だに人気のある商品で
エディ着任後も販売しているほど定番化しています。
フィービーファイロが辞任し、新しく就任したのは、ディオールオムやサンローランの
クリエイティブディレクターを務めていたエディスリマンでした。
エディは、歴史上初のセリーヌメンズラインを手がけ
大人の女性のために作っていた今までのセリーヌに、終わりを告げます。
しかし、その中でもスキニーパンツを大衆に広めたのは彼の大きな功績の一つです。
今や当たり前になったスキニーパンツですが、当時は衝撃的なことでした。
タイトなシルエットや、60s,70s,80sのロックカルチャーをベースに、そのスタイルはブレません。
そのブレないスタイルが世の男性を惹きつける魅力なのです。
また、エディは、サンローラン史上最高の売上を伸ばした大きな立役者であり
彼がデザインを手掛けたライダースやテディジャケットは、いまだに定番になっています。
セリーヌがエディを起用した理由は、メンズ層を獲得したかったことが大きな目的とされています。
CELINEのÉではないロゴマーク、実は、1960年代にCELINEの創設者によって作られていたデザインなのです。
エディスリマンは、「CELINEのロゴ変更はセリーヌの新たなスタートと
創設者のセリーヌ・ヴィピアナをリスペクトして作ったロゴだ」と表現しています。
CELINEは、ウィメンズブランドとして広く知られています。
新しくなったセリーヌはメンズだけではなく、ウィメンズコレクションも大幅にイメージが変わりました。
エディがセリーヌに就任した初日にデザインし、レディー・ガガが持ったことで話題になった「16 (セーズ)」
日本だと長澤まさみさんが着用したことでも話題になりました。
エディ・スリマンが手掛ける新生セリーヌのシンボルであるとともに、クラシックをベースとして
セリーヌ 創業時のクラフツマンシップに敬意を表したデザインで
エディらしいシックでストイックなプロダクトはとても魅力的です。
銀座パリス北千住学園通り店では
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こんにちは!
今回は【ヴァンクリーフ&アーペル】の歴史のご紹介です。
ヴァンクリーフ&アーペルは1906年にパリのヴァンドーム広場で創業しました。
ブランド名の由来は創設者のアルフレッド・ヴァンクリーフとサロモン・アーペルの名前からきています。
アルフレッド・ヴァンクリーフは宝石加工職人の息子であり、サロモン・アーペルは宝石商の息子でした。
なぜこの両名が協力してジュエリーブランドを立ち上げたのでしょうか。
それは、この2人の関係性を調べると分かると言われています。
実はこの2人は、続柄でいうところの義理の兄弟なのです。
サロモン・アーペルの妹であるエステル・アーペルとアルフレッド・ヴァンクリーフが結婚したことが
ヴァンクリーフ&アーペルが始まったきっかけだと言われています。
創立後、ヴァンクリーフ&アーペルは順調に成長を遂げていきます。
ヴァンクリーフ&アーペルが産まれた1900年代初頭はちょうどアールヌーヴォー様式からアールデコ様式というデザインの過渡期だったと言われています。
そのような時流の変革期においてもヴァンクリーフ&アーペルはうまく流行を取り込み1925年にパリ万国博覧会にてグランプリを受賞しています。
同時期にデザイナーに就任したルネ・ピュイサンは上記ヴァンクリーフ夫妻の娘であり、ヴァンクリーフ&アーペルを代表するデザイナーとして今でも名前が知られています。
そして、ヴァンクリーフ&アーペルを代表するモチーフ『アルハンブラ』が生まれたのが1960年代です。
この時期にもなるとヴァンクリーフ&アーペルのネームバリューは今と比べても遜色なく
世界的な著名人からのスペシャルオーダーを数多く引き受けていました。
アメリカの大女優であり引退後はモナコの君主と結婚したグレース・ケリー王妃が挙げられます。
それ以降も数多くの有名なモチーフを発表し、ヴァンクリーフ&アーペルは今でも、世界の女性の憧れの的となり続けています。
アルハンブラシリーズは1960年代、正確には1968年に誕生したモチーフです。
四葉のクローバーをかたどった幸運の象徴であるアルハンブラは登場から50年以上経った今でもなお愛され続けるヴァンクリーフ&アーペルを代表するアイテムとなりました。
その50年以上の歴史の中で、アルハンブラシリーズにも多彩な仲間が増えています。
最もベーシックなアルハンブラです。
マザーオブパール(真珠の母貝)を使用していますが、他にも様々な種類の宝石を用いています。
トップの大きさは1.5㎝程度になり、他のシリーズと比較すると中間のサイズになります。
ヴィンテージアルハンブラよりもサイズダウンした、一番小さいアルハンブラです。
パピヨンと呼ばれる蝶モチーフも存在します。
2007年に発表され、主に若い女性を中心に人気を集めています。
蝶やハート型などをモチーフにしたアルハンブラ。
サイズはヴィンテージアルハンブラと同じくらいです。
四葉と蝶の組み合わせのモチームもあり、華やかなアルハンブラと言えます。
アルハンブラシリーズはミル打ち(四葉のフチの金属が丸い粒の様に連続して彫られている技法)が特徴的です。
一方でピュアアルハンブラは、全体に段差が一切ない滑らかな仕上がりです。
他のアルハンブラとは違うしなやかな印象で、アルハンブラが好きだけど他の人と被りたくないという方におすすめです。
2006年、ヴァンクリーフ&アーペル100周年の年に発表されたマジックアルハンブラはヴィンテージアルハンブラよりも1.5倍程度大きいアルハンブラです。
モチーフが複数ついているものも存在し、そちらは様々なサイズの四葉が胸元を彩ってくれます。
マジックアルハンブラと同時期に発表されたビザンチンアルハンブラは宝石を使わずに金属だけで四葉を表現したアルハンブラです。
シンプルで他のアルハンブラにはない印象を与えてくれるためピュアアルハンブラ同様、他の人と被りたくないという方におすすめです。
アルハンブラシリーズの代表的な種類です。
今回は、ヴァンクリーフ&アーペルを紹介しました。
アルハンブラシリーズの中でも、希少性が高いコレクションアイテムもあり多彩な魅力にあふれたブランドと言えます。
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こんにちは!
今回は【ピアジェ】の歴史のご紹介です。
1874年、スイスにあるジュラ山脈の高度1000m以上に存在する「ラ・コート・オ・フェ」。
日本語で妖精の丘という意味を持ち、冬になると激しい寒さを呼び、孤立の深まる厳しい環境であるこの地で
一人の若者が時計製造に取り組みます。
彼の名はジョルジュ=エドワール・ピアジェ 。
ジョルジュは19歳という若い年齢でありながら、自分の農場の敷地内に時計工房を設け
家族と共に時計の部品やムーブメントの製造を始めます。
「常に必要以上のモノを作る」というのがジョルジュの理念であり、時計製造においてのこだわりでした。
文字通り、彼を中心に制作された部品やムーブメントは他には類を見ない高性能を持ち
スイスや諸外国から発注依頼が殺到します。
創業当初のピアジェはまだ部品やムーブメントの製造のみでしたが
1911年に息子のティモテ・ピアジェがジョルジュから会社を引き継ぎ
本格的に懐中時計や腕時計の製造を始めることになりました。
1943年には、ティモテの息子でありジョルジュの孫であるジェラルドとヴァランタンの二人がピアジェを商標登録し
正式にブランドとして認められるようになります。
これを機に時計工房の規模拡大、近代化されたもう一つの工房も建設されました。
ピアジェをイメージしてもらうと、どれもケースが薄くデザインされているかと思われます。
ピアジェの代名詞ともいえる超薄型ムーブメントは1957年に第一作目が誕生しました。
その厚さはなんと2mm。現在ではクォーツ時計やスマートウォッチが普及され
薄型の時計というのは一般的となりました。
しかし、今からおよそ50年以上前の時計界ではそこまでの技術はまだ到達していない中
ピアジェは手巻き時計・オートマチック時計の超薄型に成功したのです。
やがてそれは「革命的ムーブメント」と呼ばれ、他のブランドを圧倒させる時計技術が形となりました。
ピアジェのもう一つの顔であるジュエラーは1959年からスタートしました。
どちらかというとピアジェ=ジュエリーブランドと認識されている方が多くいらっしゃるのではないでしょうか。
歴史では1960年にスイスの都市・ジュネーブに位置した金細工の工房をピアジェが買収したことで
宝飾時計やジュエリー制作が始まりました。
元々、時計制作での細かな作業を得意としていたピアジェの職人たちは、それをジュエリーにも活かし
長年ピアジェの顧客である富裕層の後押しもあり、ジュエリーブランドとしての地位も確立していきます。
ピアジェを代表する人気ジュエリーのポセションは1990年に発表されました。
フランス語で“所有”を意味する「POSSESSION(ポセション)」には、愛する人を所有し
そして所有されるという、情熱的な思いが込められています。
二つのリングを重ね合わせくるくる回転する遊び心あるデザインは、ジュエリー界に新たな風を吹かせました。
見るものを楽しませ、身につけた人には自由で前向きなエネルギーを放って欲しいと込められたポセションは
日常生活からパーティーなど場所を限らずお使い頂けます。
ポセションが誕生して25周年を迎えた2015年には新作が発表されました。
人生の「ターニングポイント」をテーマにアメリカの女優ジェシカ・チャステインが演じる
ショートムービーのメイキング映像が公開されております。
そして来年、2020年には誕生30周年を迎えます。
人生を楽しむ女性の良きパートナーと評されるポセションの新たな一面が見られるかもしれません。
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こんにちは!
今回は【イヴサンローラン】の歴史のご紹介です。
サンローランの創業者であるイヴ・サンローラン氏は
1936年8月1日、フランス領アルジェリアの港町であるオランで生まれました。
両親は保険会社に勤めており、比較的裕福な家庭で育ったサンローラン氏は
17歳のときに母親の後押しによってパリに移住し、ファッションデザイナー養成校である
パリ・クチュール組合学校に入学します。
学校での成績は極めて優秀で、3ヵ月間のコースの終了時に開催されたデザインコンクールでは
ドレス部門において、サンローラン氏が発表したカクテルドレスが最優秀賞を受賞することになります。
また、このときにカクテルドレスを縫製したのは、あのユベール・ド・ジバンシィで
さらにはコート部門で受賞をしたのは、シャネルやフェンディのデザイナーとして有名な
カール・ラガーフェルドだったと言われ、後のファッション界をけん引きしていくデザイナーが勢揃いした
伝説的なコンクールとして語り継がれています。
カクテルドレスがコンクールで最優秀賞を受賞したことで、人生を変える転機が舞い降りてきます。
コンクールの審査員であったファッション誌「VOGUE」のディレクターである
ミッシェル・デブリュノフ氏が、サンローラン氏の独創的で想像力に溢れるデザインに感銘を受け
サンローラン氏をクリスチャン・ディオールに紹介します。
紹介を受けたクリスチャン・ディオール氏はサンローラン氏の感性やデザインセンスを高く評価し
才能を認めると、1954年にサンローラン氏をブランドに迎え入れることになり
サンローラン氏を自身の後継者の候補として育成を開始します。
その後1957年にクリスチャン・ディオール氏が亡くなると
サンローラン氏は次期のディオールの主任デザイナーとして抜擢されることになり
21歳と言う若さで一流ブランドのデザイナーに任されると言う快挙を成し遂げます。
1958年春、サンローラン氏は、ディオールで自身の最初のコレクション「トラペーズライン」を発表します。
フランス語で台形と言う意味のトラペーズは、裾に向かうにつれて広がっていく女性らしい優美なシルエットで
発表直後の地元の新聞には、イブ・サンローランはフランスを救い
偉大なディオールの伝統が続くことになったと賞賛を上げ、プレッシャーに押し潰されそうになりながらも
サンローラン氏は見事にデビューコレクションを成功に導きました。
サンローラン氏の新生ディオールは、ディオールの顧客にも絶賛され、当時の顧客リストには
イギリスのウィンザー公爵夫人の名前もあったと言われています。
「トラペーズライン」がヒットを飛ばし、一躍トップデザイナーとしての箔が付いたサンローラン氏でしたが
次に発表した裾を狭めたデザインの「ホブル・スカート」や、ストリート調のデザインである「ビートライン」は
エレガントさが欠けているディオールにそぐわないデザインだとして不評となってしまいます。
1960年、サンローラン氏はフランス軍に徴兵され、アルジェリア独立戦争に出兵することになり
これをきっかけにディオールを事実上解雇されます。
除隊後の1961年、サンローラン氏は恋人であるピエール・ベルジェ氏
そしてアメリカの実業家であるマック・ロビンソンとタッグを組み
マック氏の援助によってオートクチュールメゾン「イブ・サンローラン」を立ち上げます。
ブランドの設立にあたって、サンローラン氏はフランスの有名グラフィックデザイナーである
アドルフ・ムーロン・カッサンドル氏にブランドロゴのデザイン作成を依頼します。
Y・S・Lを重ね合わせた印象的なロゴは
作成者の名にちなんで「カサンドラ・ライン」と言う名で呼ばれることもあります。
また、「イヴ・サンローラン」の最初のコレクションには、フランス公爵の娘である
ルル・ド・ラ・ファレーズをモデルに起用し、話題性を集めました。
1965年に発表した「モンドリアン・ルック」では、オランダの有名抽象画家である
ピエト・モンドリアンから着想を得てデザインした、カラフルなミニドレスを発表します。
現代的なモダンアートをファッションで見事に表現したミニドレスは
白地の生地に太い黒の水平線と垂直線で分割し、そこに赤・青・黄の原色カラーをランダムに大胆に配色をした
一度見たら忘れられないインパクトのあるデザインで、新時代のファッションとして多くの反響を集めました。
また、モンドリアン・ルックで発表されたブロックヒールの靴は
1967年公開の映画「昼顔」で、女優のカトリーヌ・ドヌーヴが着用したことで
1年で20万足を売り上げる大ヒットを記録します。
1966年には、新たなラインの「ル・スモーキング」を発表します。
ル・スモーキングは、男性用のタキシードを女性用にアレンジしたスタイリッシュなデザインのスーツで
サンローラン氏は、タキシードは男性の為のものではなく、女性でも身に着けられると言うことを
示す為にデザインに至ったと言われており、女性のスーツ+パンツスタイルの先駆けとも言われています。
また同年には、既製服であるプレタポルタラインを取り扱う
ブティック「イヴ・サンローラン リヴ・ゴーシュ」をパリにオープンします。
プレタポルテでは、若者をターゲットにしたストリートファッションを取り入れたデザインを多く打ち出し
オートクチュールとの差別化を図っていました。
1968年に発表した「シースルードレス」は、名前通り透けている素材を使用したドレスで
今では当たり前となっているシースルー素材は、サンローランから始まったと言われており
発表直後から大きな反響を呼び、一大ヒットを記録しました。
サンローラン氏が手掛けるコレクションの数々は、従来のモードスタイルと異なる
斬新で革新的なデザインだったことから、次第に「ニューモード」と呼ばれるようになり
ココ・シャネルからは「サンローランこそ私の後継者」と実力を認められ
サンローラン氏はモード界の帝王として称えられることになります。
次々と斬新で画期的なスタイルを発表し、これまでのファッションの定義を覆していくサンローランでしたが
中でもファッション業界に大きな衝撃を与えたのがサファリルックです。
男性の狩猟用の服を女性向けにアレンジをしたサファリジャケットスタイルは
太いベルトでウエストマークを施して女性らしいシルエットを演出し、カッコよさを取り入れつつも
エレガントな新スタイルを生み出しました。
また、アパレルだけでなく、エレガントで女性らしいデザインのシューズも大人気となり
現在の冬のファッションの定番となったロングブーツは、サンローラン氏が考案したと言われています。
1985年、サンローラン氏が、フランスの最高勲章であるレジヨン・ドヌール勲章を受勲します。
1989年、イブ・サンローランがパリ証券取引所で株式公開をします。
株式公開はファッションブランドでは史上初となり、大きな話題となりました。
1993年、サンローラン氏がフランス・オートクチュール組合のデ・ドール賞(金の指貫き賞)を受賞します。
同年、サノフィ・ボーテ社にイヴ・サンローランが買収され、ここから激動の時代が始まります。
1997年、エディ・スリマンがメンズラインのアーティスティック・デザイナーに就任します。
エディ氏は1998年にスタートしたジーンズラインも担当することになり
エディ氏は同時は無名に近かったものの、どちらのラインも高く評価され、ブランドに新たな風を吹き込みました。
1999年、イスラエル人のデザイナー、アルベール・エルバス氏が
「イヴ・サンローラン・リヴ・ゴーシュ」のレディースラインのデザイナーに就任し
サンローラン氏は、オートクチュール部門に専念することになります。
2000年、ピノー・プランタン・ルドゥート(現ケリング)によってサノフィ・ボーテ社が買収され
サンローランは、ケリング傘下に入り、この買収劇の最中にアルベール氏が辞任をします。
2001年、「イヴ・サンローラン・リヴ・ゴーシュ」のクリエイティブ・ディレクターとして
トム・フォード氏を迎え入れます。
そして、40年に渡って第一線で活躍をしてきたサンローラン氏が、2002年1月に開催された
オートクチュールコレクションをもって引退をし
同時にイブ・サンローランのオートクチュール部門も閉鎖することになります。
2004年、トム・フォード氏が辞任をし、後任にステファノ・ピラーティが就任します。
2007年、サンローラン氏の長年の功績を称え、フランス大統領からレジオン・ドヌール勲章 グラントフィシエ受章を授与されます。
2008年、創業者であるサンローラン氏が生涯に幕を閉じます。
当時のフランス首相であるフランソワ・フィヨン氏は
「サンローランのオートクチュールは永遠に歴史に残る」と述べ、多くの著名人が別れを惜しみました。
2012年、メンズラインとジーンズラインのデザイナーを務めていたエディ・スリマン氏がサンローランに復帰し
ステファノ・ピラーティに代わってクリエイティブ・ディレクターに就任します。
鬼才デザイナーとして知られるエディ氏は、2000年にディオールのディレクターに就任し
一度はイブ・サンローランを離れたものの、その後ブランドが低迷期に突入したことにより
ブランドを立て直す為に再び戻ってきたと言われています。
エディ氏はブランド改革を大胆に行うことでも有名ですが、就任してすぐにプレタポレテのブランド名を
「イブ・サンローラン」から「サンローラン・パリ(サン・ローラン)」に改名をしました。
これまでのイメージを一新する為に改名をしたと言われていますが
有名なYSLのロゴは引き続き使用することになり、なお、コスメやフレグランスのラインは改名されず
現在も「イブ・サンローランボーテ」として展開されています。
エディ氏が手掛ける新生サンローランは、これまでの伝統を継承しながらも
ストリートやロックと言った現代的なテイストを盛り込んだことで新たな層を取り込むことに成功し
エディ氏の快進撃によって売上も回復していくことになります。
2016年10月、4年間サンローランをけん引きしてきたエディ氏が
クリエイティブ・ディレクターを辞任することになり
後任にはフェンディやヴェルサーチでデザイナーをしていたアンソニー・ヴァカレロ氏が着任することになりました。
アンソニー氏は、エディ氏の世界観を継承しつつも自分のカラーもしっかりと取り入れ
ボディラインにこだわったダークでダイナミックなデザインを多く展開し
アンソニー氏による新たなサンローランの幕が開きました。
2019年、アンソニー氏はサンローランとの契約を3年更新したことが、関係者によって明らかにされます。
今後も、エネルギッシュ溢れる、アンソニー氏が手掛けるサンローランに注目が集まります。
ファッション史においても数多くの偉業を成し遂げてきたイブ・サンローランの今後が楽しみです。
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